合唱曲「怪獣のバラード」に込められた思いとは。さえないおっさんなりに考えました。

とほほな画力です Uncategorized

 みなさんこんにちは、オケラです。洗い屋という工務店さん向けの掃除屋をしています。以前、我が家の坊ちゃんBの生活発表会を見に行きました。地元の小学校は児童数が少ないものですから、生活発表会は2学年合同です。坊ちゃんBの様子を動画に取り終えてほっとしていると、入れ替わりで違う学年の子供たちが、合唱の準備を始めました。曲目は怪獣のバラードです。髪の長い、きれいな音楽の先生が伴奏を始めました。僕はその心を揺さぶるような激しいイントロを聞いた時に、はっとしました。30年以上前の中学校の合唱祭の時に、確か他所のクラスが歌っていて、本来ひょうきんなキャラクターであるはずの怪獣がなんでバラード(しみじみした曲と思っていました)なんかいなと、気にはなっていたことを思い出したのでした。他の保護者のみなさんが、我が子にフォーカスしているなか、僕は耳を澄まして、子供たちの歌声をじっと聞いていたのでした。やっぱりいい曲だなあと思いました。特に2番は泣けてきます。中学生の時は、そこまで思ってなかったはずです。早速家に帰ってスマホで調べようと思いました。

 こういう比喩的な歌は、いろんな方が、いろんな解釈を試みているはずです。楽しみにグーグルを開いてみると、思いもよらぬ言葉が出てきました。「怪獣は公害の暗喩です」ぎょえ、なんだそりゃ。ほんまかいな。しかし、かなり信用性の高い情報のようです。長丁場になりそうなので、スマホを充電しながら、あっちこっち探っていくと、東海林修(しょうじ おさむという音楽界の大御所です、とうかいばやしとは読まないようです)アーカイブというサイトがありました。2011年からの運営にはなっているものの、東海林修先生公認ファンサイトGREEN GINGERとして、もっと以前から運営されていたようで、ここでの記述が、かなり川上なのではないかと思われました。また、これ以上、信頼性の高いサイトは他に考えられませんので、こちらの掲載内容を引用させていただきます。


東海林修先生による 怪獣のバラード 合唱指導のポイント

前奏の叫びはあまりお勧めしませんが雰囲気として理解して下さい。
男声の常で主旋律より上に和音がのりますが
聴衆に旋律が聞き分けられるよう指導して下さい。
一般に此の件で混乱を生じてますが
「薔薇が咲いた」のような例もありますので
指導者の力量に任せ、仕上がりに期待します。
(東海林 修 先生)
小・中学校及び高校や一般からも大へん楽譜の希望が多く、
47年度のオリジナルの中でも一番親しみ易い曲になりました。
かいじゅうは公害のつもりでした。
タンバリンやその他にぎやかな感じの出るものでしたら
なんでも持ち寄って歌いましょう。    
番組放送当時出版された
『ステージ101 コーラスアルバム』(カワイ出版)より

(わかりやすいように部分的に赤文字にしました)
(前奏の叫び声というのは、オリジナル版のことです)

http://www6.airnet.ne.jp/oumesan/discography/kaiju_101_2.htm
これがオリジナル! 「怪獣のバラード/ヤング101」
最後のやっ!が無いような

カワイ出版の楽譜集での、東海林修先生のお話ならば怪獣=公害に間違いないのでしょう。でも、知ってか知らずか、怪獣は当時の大きな社会問題であった公害を意味するんだと念頭においていない方々は、この曲について自身の体験などを踏まえながら、実に楽しそうに生き生きと語られています。ところが怪獣=公害との考えに縛られている方のコメントなどは、なんだか、想像力を制限されて、とてもつまらなさそうです。不謹慎ではありますが、もし本当に怪獣を公害のつもりでこの曲を作り上げたのであれば、約50年というかくも長きにわたり、幅広い世代から親しまれ続けることなど、到底考えられません。怪獣はまぎれもなく誰かであり自分だと思えるからこそ、皆に愛され、時代と世代を超える名曲として、なんどもなんども命を吹き込まれ、生き続けてきたのではないでしょうか。そして、この楽譜に挿入された、東海林修先生のコメントですが、なんだかものすごく違和感を感じる文章です。前後の文脈が整っていないように感じます。かなり省略した文章のようです。実物の楽譜集を見ていないので、断定はできませんが、意図的ではないにしろ、これは僕がミステリー小説なんかを読む時にいつもコロリとだまされてしまう、叙述トリック(ニコニコ大百科によると読者の先入観や思い込みを利用し、一部の描写をわざと伏せたり曖昧にぼかしたりすることで、作者が読者に対しミスリードを仕掛けるトリックである)に近い状態になってしまったのではないかと思います。僕の予想ですが「公害のつもりでした」という言葉は、もともと企画の段階で東海林修先生が、この番組はNHKだし、怪獣を公害の暗喩にして若者の歌を通し、社会に問題提起をするのもいいんじゃないだろうかと、作詞家の岡田冨美子さんに持ち掛けたところ、詩を書き進めていくうちに、内容が全然違う方に行ってしまった。でも、それを東海林修先生にお見せしたところ、こりゃいい歌だ。怪獣=公害よりもいいんじゃないのとなり、世に送り出され、大いに支持されるところとなった。でも、その誕生エピソードが「もともとは怪獣を公害の暗喩として作ろうとしたのですが、岡田さんが全く違う歌にしてしまったんですよ」という真意が曲がってしまった状態で、一部に広まってしまったというのが、事のいきさつではないのかなと思うのです。

 自分で勝手にはまり込んでしまった、怪獣=公害という、かなり不自由な言葉の制約から離れ、やっと意の向くままに怪獣のバラードに込められた思いを、考えられるようになりました。よかったです、うれしいなあ。

 

 ところで、僕にとってバラード曲と言えばアニメタイガーマスクのエンディング、みなしごのバラードなので、切なく悲しいメロディーだとばかり思っていたのでしたが、そうでもないようですね。冒頭にも書きましたが、本来コミカルなキャラクターを連想させる怪獣なのに、なぜバラードなのか不思議でした。これこそこの曲の要、怪獣がバラードな所が最大の肝です。では早速参りましょう。

真っ赤な太陽 沈む砂漠に 
大きな怪獣が のんびり暮らしてた。

 この曲で太陽は意味違いで3回でてきます。最初の太陽は物語の情景を表す太陽ですよね、沈むも砂漠もどちらもマイナスを連想させる言葉です。そんな不毛地帯にでも、のんびり暮らしていけるのが怪獣です。怪獣だったら平気なんだなと思うようになります。

ある朝目覚めたら 遠くにキャラバンの
鈴の音聞こえたよ 思わず叫んだよ

 砂漠は生き物を寄せつけない世界ですが、キャラバンは砂漠を越える能力のある数少ない存在ですし、誰も近づけない砂漠の真ん中に住む怪獣の生活に、変化を与えられる唯一の存在でもあります。ですので、ここでキャラバンが登場するのは自然な流れです。そして重要なアイテムが鈴です。鈴は自分の位置を知らせる装置であるとともに、相手を呼び出すためのものでもあります。思わず叫んだとあるように、キャラバンの鈴は怪獣の心に中にあふれていた思いを、外に呼び出したのでした。

海が見たい 人を愛したい
怪獣にも 心があるのさ

 遠くのキャラバンの鈴の音など、ほんのささやかなもののはずです。僕はある朝目覚めた時に、ごみ収集車のオルゴールを聞いて、海が見たい人を愛したいとは思いません。怪獣は明けても暮れても海が見たい人を愛したい海が見たい人を愛したいと思い続けていたのでしょう。ですから、わずかなキャラバンの鈴の音でさえきっかけとなり、抑え込んでいた感情が外にあふれ出たのだと思います。怪獣が暮らしていたのは生命を拒絶する砂漠ですから、生命を育む海はその反対語と考えて差し支えないでしょう。ですので、海が見たいは砂漠を出たい、砂漠の外に出たい、今の状況から抜け出したい、今までとは真逆の自分になりたいということでしょう。そしてここは一番大切なところです。怪獣のくせになんで異種族の人を愛したいと思うのか?人を愛したいは、実は怪獣は怪獣ではなく人だからです。なぜなら心があるからです。心を持つから人だといえます。ここで最初に戻り、なぜ怪獣だったのかということを理解しなくてはいけません。みなさんよく何を考えているのかわからない、変わった人のことを、怪獣や外人や宇宙人だなんて、こっそり呼んだりしていませんか。きっと怪獣というのはそういった、周りに理解されないため、心を閉ざしてしまった人を指すのではないでしょうか。怪獣だから砂漠は平気だろうと周囲は思っていても、やはり怪獣ではありませんから、平気ではなかったのです。見た目ほど、のんびりでもなかったということです。そして多かれ少なかれ、誰もが怪獣と同じ悲しみの部分を持っているからこそ、この曲は時代を超えて、人々の心を捕らえて離さないんじゃあないでしょうか。

出かけよう 砂漠捨てて
愛と海の あるところ

 やはり怪獣の今までの住まいである砂漠は、捨て去るべき閉ざされた自身の心の世界でしょう。居心地の悪い、でも自分で作り上げたなかなか抜け出すことのできない閉じた世界。そして、ここでいう愛は愛情や恋愛という特定の対象者がいる愛ではなく、大きい意味で出会いや人との関わりだと読んだ方が、後々この歌の理解の幅が広がると思います。怪獣は出会いを求め記念すべき第一歩を踏み出すのです。

真っ赤な太陽に 昇る竜巻を
大きな怪獣は 涙で見つめてた

 ヒントになる言葉がなくて、この2行の真意は難しいですね。深い決意でもって歩みだした怪獣が、涙で見つめてしまうものはなんでしょうか。本来竜巻は圧倒的な破壊力を持つ自然災害であり、不吉な存在にたとえられますが、ここでは違う意味で使われているように思います。僕は周りから、笑われたり馬鹿にされることの方が多かったので、怪獣の気持ちはよくわかるつもりです。ここで登場する太陽は、自分が努力してもなかなか手の届かない高い目標であり、でも、その太陽にあっという間に届いてしまう周りのみんなを竜巻にたとえているのではではないのかなと感じます。自分の先をずっと行っている周りの人をうらやましく思い、泣いたのではないでしょうか。行動を起こし始めた怪獣に対する、周りからの意地悪とも考えられなくもないのですが、いじめられっ子の外部からの忍耐力は並みではありませんので、もうそれぐらいでは泣かないでしょう。まあ、なかなか決め手に欠けますが、次の歌詞とのバランスで、人それぞれ思い思いの解釈が成り立つように思います。

自分の足跡に 両手を振りながら
東へ歩いたよ あさひる夜までも

 僕の一番大好きな歌詞です。涙がぽろりと出そうになります。まあおっさんですから出ませんけどね。この2行はとても重要で、この2行の行動からしか、なぜ怪獣は竜巻を見て涙を流したのかを、推測できる言葉が見当たらないからです。つまり、竜巻を見て泣いた怪獣が次に何をしたかということで、怪獣の泣いた気持ちが読み解けてきそうです。どれほど進んできたのか、振り返れば自分のどんくさい足跡がズルズルズルズル続いているのを見たはずです。両手を振りながら歩いたとあるので、怪獣は振り向いてはいないようにもとれますが、それはどちらでもいいでしょう。片手ではなく両手を振るのは怪獣の揺らぐことのない決意の大きさの表れです。怪獣が住んでいたのは太陽が沈む砂漠、つまり西ですから、東へ歩くということは、今までとは真逆な自分を目指して進んでいるということです。海が見たいと言うのも、きっと東に向かったのと根は同じでしょう。でも、怪獣はとても誇らしい気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。きっと、砂漠での毎日よりも、引き締まった凛々しい顔立ちで、闘う男の顔になっていたはずですよ。ひょっとしたら、女性かも知れないですけどね。ズルズルズルズル朝昼夜までも。このブログを読んでくださっているのが中高年であるならば、今までの人生で、どれだけ頑張っても頑張ってもうまくいかず、いつが朝で昼で夜で春で夏で秋で冬だったのか、わからないほど必死で過ごした経験が一度や二度おありでしょう。僕は一番つらかった時が思い返され、胸が締め付けられるようになります。でも、あの時の経験は、今でも最高の宝です。みなさんは、怪獣がどうして竜巻を見つめて泣いたと思いますか?

海が見たい 人を愛したい
怪獣にも 望みはあるのさ

 海が見たい人を愛したいは、真逆な自分への挑戦と人との出会いです。そして、こんどは怪獣にも望みがあるんだと作詞家は述べています。今までの文脈から考えると、この望みというものは怪獣(なかなか周囲の理解を得られない人)でも頑張れば人を愛し愛されるチャンスがあるよ、恋愛できるよというには、いささかスケールが小さい感じが否めません。周囲の誰もが理解できないような深い絶望感の中をずっと生きてきた怪獣の心の中には、もう望み(希望)などすり減ってしまい、消えてなくなったかのように思えますが、作詞家は決してそうは認めてくれないようです。望み(希望)はあるんだよ。ススメススメ!と後押ししてくれているのでしょう。

新しい 太陽は燃える
愛と海の あるところ 

 2度繰り返すので、この歌の最も伝えたい言葉でしょう。最後の太陽はもちろん、怪獣の心の中にある望みという新しい太陽であり、この太陽は昇るではなくさらに強い燃えるという言葉に置き換えたのではないでしょうか。そして今回の愛と海のある所というのは目的地としての場所や位置ではなく、愛と海のあるところを目指して一歩踏み出せば、今いるところが愛と海のあるところなんだと言っているように思います。これは僕の願いです、そうであって欲しいと思います。そして、忘れてはならないのが、最後のやっ!でしょう。やっ!は決意を表す叫びなので、もし怪獣が到着できたのであればやったーでもいいぐらいです。ですが怪獣は、やっ!と叫んでいるので、いまだに愛と海のあるところに到着できているとは思えません。ですが、この曲を歌い終えた時、怪獣が愛と海のあるところに到着できたと同じくらい、すがすがしい気持ちになります。そのことからも、怪獣の心に望みという新しい太陽が燃えていれば、そこが砂漠の真ん中でも地の底でも宇宙の果てだろうとどこでもよく、怪獣が決意をして立ち上がったその場所がもうすでに愛と海のあるところなんだと言っているように思うのです。

 怪獣のバラードは物語の形式を持つ歌でありますが、その割に、言葉の数がとても少ないので、歌の最後までくると10人いれば10通りの解釈が成り立ってしまいます。余分なことが書かれていないので、いろんなことが見えてきてしまうのでしょう。これが正解というものもなければ、そりゃ間違いだよというのもありません。今回、長々と述べさせていただいたのは、僕の心が映し出した怪獣の気持ちで、それをみなさんにも同じであってほしいとは、ひとつも思っていません。みんな違っていて、それでいいと思います。その懐の深さが、この歌の大きな魅力のひとつではないでしょうか。(その懐の深さを、作詞家は立命館大学でのご講演の中で「隙」と呼んでいました。作詞家の岡田冨美子先生のご講演の内容を、立命館大学のホームページで閲覧できます。アドレスを載せておきますので、興味のある方は是非ご覧ください。そして、ご講演内容を世に大きく開けてくださっている立命館大学に、心から感謝申し上げます)

We could not open the web site

 最後までおつきあいくださり、本当にありがとうございました。ブログにしてはとても長い7000字越えとなりました。ブログ入門的なサイトには、長いと読者の方に嫌がられるとあったのですが、僕の今の筆力ではこれが精一杯です。それにしても合唱って素晴らしいですよね。ピアノを囲んで皆がひとつになれ、素敵なハーモニーを生むことができます。皆で大きな満足感を得ることができ、そしてそれを聞いている人達にも、同じだけ分けてあげられます。ところで、この時、指揮者と伴奏者はどんな気持ちなんでしょうかね。また長くなりそうです。ではでは

コメント

  1. 山本高平 より:

    こんにちは!私も怪獣=公害というのに違和感を持って調べてたら、こちらのブログに辿り着きました。オケラさんの仰る通り、制約のかかってない方が楽しい、という意見に腹落ちしました、もうこれ以上調べるのは止めますw

    しかし良い曲ですねホントに。涙を越えてとかも。

    ありがとうございました!

    • saenaiossan より:

      山本さんこんばんは、コメントありがとうございます。「涙をこえて」もすてきな曲でしたね。あしたに続くあしたもあかるいでしょうという2番の歌詞が、ただの楽観ではなく、明るくしてやろうという強い意志が込められているように感じられて大好きです。中学校の校内の合唱祭の曲を選ぶ時に担任の先生が「みんなが歌いたい曲と優勝しやすい曲は違うんだぞ」と、理系の先生らしく、過去のデータをもとに「涙をこえて」もおすすめされていました。結局、僕達のクラスは「ともしびを高くかかげて」を選び、なぜだか優勝しました。僕は音痴で足を引っ張っていたはずですが、みんなで気持ちのいい合唱ができたことを思い出しました。

  2. より:

    東海林さんは作曲家であり、作詞はしていません。
    東海林さんのなかでは怪獣=公害だったというだけの話だと思います。

  3. ごろう より:

    私もふとしたきっかけで調べ、このブログを楽しく拝読しました。ぼんやり歌ってきたこの曲への理解が深まりました。

    オケラさんの解釈を踏まえた上で、私も2番の始まりについてもう一度考えてみました。
    私は「涙で見つめてた」という歌詞に、怪獣の前向きなエネルギーを感じます。

    砂漠に生きる怪獣が、「海が見たい」「人を愛したい」と動き出した1番を受けて、ストーリーは進み2番でその道中を表していますよね。

    突き動かされるようにして歩み出し、長い長い道のりを進む怪獣。
    真っ直ぐに目指す先(東)に、真っ赤な太陽が輝いていて、加えてエネルギーの象徴として「竜巻」まで昇っている。目指す方角に映る景色の美しさと力強さに、一層心惹かれるものがあり、励まされ、求めるものがそこにあるという確信を持ってさらに力強く進もうとする怪獣。その目に、不覚にもグッと涙が湧いてしまっているのかなぁと思いました。

    なんだか、しんどい時にふと美しい景色を見たり、キツい状況の先にあるであろう明るい未来を思ったりしたとき、それが心の活力となると同時に、どこか感傷的になってしまうのと似ているなと感じます。

    ただ、「涙で見つめてた」という言い方だと、その場に立ちすくんで、ぼうっと見ている感じもします。死に物狂いで前に進みながら涙を流しているのか、ふと立ち止まってもの思いに耽っているのか…
    今も怪獣の姿に想像を膨らませています。

    すでにこういう解釈された方もいるかも知れませんが、誰かと共有したくて書きました。

    またこれは余談ですが、この歌の1番は「真赤な太陽 沈む砂漠に〜」で始まり、どこぞ西の果てに謎の怪獣がいるという、東側の人の視点で始まりますが、
    ストーリーが進み2番の途中では完全に「真っ赤な太陽 昇る竜巻を 大きな怪獣は 涙で見つめてた」「東へ歩いたよ」と、東を向いて進む西側の怪獣視点で描かれてますよね。
    いつの間にやら怪獣に感情移入して、ベクトルが180度変わってしまっているのも面白いですね。
    関連して、1番では真っ赤な太陽が【沈む】だけの物として登場しているのに対し、2番の怪獣は真っ赤な太陽が【昇る】方角である「東」を目指していたりして、同じ太陽でも対照的に捉えられるように思います。

    おまけに、東にゆけば日出ずる国、日本に着くというのなら…なんともおめでたいですね。私はハワイに行ってみたいです。

    長文失礼いたしました…

    • ごろう より:

      自分で突っ込むのも変ですが、

      2番の真赤な太陽と竜巻は、自分の足跡が続いている先にある夕日のイメージなのかな…
      そうなるとまた変わってきますね。

      • saenaiossan より:

        ごろうさん、こんにちは。すてきなコメント本当にありがとうございます。やはり、2番の歌詞は皆さんの経験や人生観が映し出され、幅広く解釈することができてとても楽しいですよね。太陽についての含意の変化も大胆で、作詞家の巧みな表現にわくわくします。僕もごろうさんと同じく、いつの日かハワイでトロピカルなジュースを飲みながら、ダイヤモンドヘッドを眺めてみたいものです。

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